HTMLインクルード サイトナビ 人気記事ランキング01
読者からの問い合わせをきっかけに知る「高度成長期の社会と日立製品」
日立の取り組みをはじめとして、最新のテクノロジーやビジネストレンドなどを届ける日立のオウンドメディア「社会イノベーション」。日々、読者からさまざまな問い合わせが寄せられています。
こうした中、ある日一風変わった問い合わせが届きました。1950年代頃に製造された日立のテレビに付属していた「テレビカバー」が見つかったため、日立で引き取らないか、というものでした。
平成生まれの編集者はテレビカバーという言葉を聞いたことがなく、どのようなものか検討がつきませんでした。そこで、史料的な価値があるかもしれないと考え、東京駅から電車に飛び乗り、実物を見に行くことにしました。
初めてテレビがやってきた日
向かったのは岐阜県可児市。問い合わせをくれた藤井孝純さん(77歳)の自宅を訪れました。笑顔で出迎えてくれた藤井さんは、えんじ色のベルベット素材の布を手にしていました。布の隅には、現在は使われていない筆記体のHitachiのロゴが金色で印字されています。
藤井さんによると、テレビカバーは、ブラウン管を直射日光から守ったり、静電気による埃の付着を防いだりするためのもので、10歳の頃に家族が初めてテレビを購入した際の付属品でした。テレビの前面と上面に被せて使用していたと言います。
「このカバーは、当時購入した日立の白黒テレビに付属していたものです。小学校の教員だった父が初めて購入したテレビで、父の教え子の家族が経営していた町の電気屋さんで購入したと記憶しています。テレビがやってきた日からは、家族全員がテレビの前に集合して食事をするのが習慣となりました」
日本でテレビ放送が始まったのは1953年。その3年後の56年に、日立のテレビは産声を上げました。翌57年には、日立テレビの初号機である「F100」の生産が本格的にスタート。59年には、天皇皇后両陛下のご成婚があり、パレードの様子を見ようと、テレビ需要が増大しました。
「両陛下のご成婚や東京オリンピックをテレビで見たことを今でも覚えています。そういった社会的なイベントをテレビで見られるのが嬉しかったです」
テレビは一家団らんの象徴
週末に家族で団らんする際は、必ずと言っていいほどテレビをつけていたと話す藤井さん。日曜日に放送されていた月光仮面や怪傑ハリマオなど、子供向けの番組に夢中でした。
「当時は、映画館に行くとスクリーンの前にカーテンがかかっていて、上映開始と同時にカーテンが上がる仕組みでした。家のテレビにもカバーが付いていたので、テレビの電源を入れる度に、映画が始まるようなワクワク感がありました」
1960年にはカラーテレビ放送が始まり、やがて藤井さん一家もカラーテレビに買い替えました。その際、白黒テレビは処分してしまったものの、何かに使えるかもとカバーだけは保管することにしました。
「このカバーは、いつの間にか趣味のラジコンの埃よけとして使うようになっていました。それから何十年と経ちましたが、先日、物置の整理をしていたところ、このカバーを見つけました。もしかして歴史的な価値のあるものではないかと思い、問い合わせました」
今も受け継がれる日立のルーツ
テレビのほかにも、日立の家電製品を使用してきたという藤井さん。自宅には、日立の洗濯機がありました。日立に対してどのようなイメージがあるかを聞くと、次のように答えてくれました。
「モーターと言えば日立、という印象が昔からありました。子どもの頃に学校の社会科見学で発電所を訪れた際も、巨大なモーターに日立のロゴが書いてあったのが印象に残っています。家電に限らずさまざまな形で社会を支えている、信頼できる会社というイメージが今も変わらずあります」
日立は1910年、外国製モーターの修理をきっかけに創業しましたが、そのルーツが製品やサービスを通じて今日も受け継がれていることが、藤井さんの言葉から伝わってきました。時代は移り変わり、日立は2018年にテレビの製造・販売を終了しましたが、デジタル技術を活用したさまざまな製品やサービスを通して、今でも人々の生活を支え続けています。
藤井さんとの出会いをきっかけに、高度成長期の社会と日立のかかわりについて触れた平成生まれの編集者は、これからも日立と人々のつながりを伝えようという気持ちを新たにして、東京への帰路に着きました。