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日立の人:職場を幸せにするアプリ「ハピネスプラネット」 研究者の飽くなき挑戦
幸せが人の生産性を上げ、それが経済にも直結するーー。こう語るのは、日立製作所のフェローで、同社が出資して設立したベンチャー企業「ハピネスプラネット」の代表取締役CEOを務める矢野和男さん(63)です。
ハピネスプラネット社が提供するのは、矢野さんが開発したアプリ「ハピネスプラネット」。アプリを通して、働く人を幸せにするとともに、生産性を向上させる組織づくりへの貢献をめざしています。そんな矢野さんの挑戦を追いました。
従業員同士で応援しあうアプリ
従業員一人ひとりの働き方を前向きにさせるアプリ「ハピネスプラネット」。使い方はシンプルです。朝、仕事を始める前にパソコンかスマホでアプリを開くと、16個の「お題」の中からランダムで選ばれた「お題」が届きます。例えば「Passion/検討はほどほどにして行動しませんか?」「Trust/不確実な中でも人を信頼しませんか?」などです。
ユーザーはお題に20文字以上でコメントします。するとコメントを読んだ仲間(3人1組のチーム)から、「その悩み、相談にのります」や「あなたの地道な努力がこの仕事を支えています」といった応援メッセージが届きます。
チームメンバーは毎週、自動的に入れ替わる仕組みになっており、お題をきっかけにしたメンバーからの「応援メッセージ」が、従業員のモチベーションを上げ、用件がなくとも応援で互いにつながります。これが生産性の向上につながると矢野さんは指摘します。
「実際のビジネスでは、コミュニケーションのほとんどが報告、指示、依頼、回答という用件のみで、その人の仕事への“思い”や“熱意”、“決意”といったことは、あまり大事にされません。それはある意味、人を業務プロセスの『歯車』と見なす働き方といえます。そうした組織では、変化の激しい今の時代、前向きにチャレンジする力を引き出すことは難しいのです」
キャリアに訪れた大きな転機
矢野さんが、「ハピネスプラネット」を開発することになったのは、自身のキャリアに大きな転機が訪れたことがきっかけでした。
もともと大学で理論物理学を勉強していた矢野さんは、1984年、半導体の研究者として日立製作所に入社しました。「実家が旅館を経営していたので、一度は会社員になってみたかったんです」と、入社の理由を振り返ります。
以来、約40年に渡る研究生活で、矢野さんは350件を超える特許を出願、国際的な賞を多数受賞しました。その実績から、世界トップクラスの研究者と社内でも認められるようになり、2018年には、数少ない「フェロー」の称号を授与されました。
そんな研究一筋の矢野さんに転機が訪れたのは2003年、44歳のときのことでした。入社からずっと半導体の研究開発に専念してきましたが、会社が突然、半導体事業からの撤退を決めたのです。そのときの衝撃を、矢野さんは「20年も心血を注いできたことが急になくなったので、どう理解していいかわからない状態でした」と語ります。
もっとも妻の史子さんは、「夫は仕事に関してはいつも前向きで明るく、楽天的でした。そのため、当時はショックを受けている様子でしたが、どうにか乗り越えていくのだろうな、と感じていました」と振り返ります。
ポジティブ心理学との出会い
こうして新規事業を開発することが、次の仕事になった矢野さん。半導体の研究仲間たちとともに、新しいビジネスについて何度も議論を重ねる日々が続きました。
そんな中、矢野さんの目に留まったのが、米国でブームになっていた幸福を科学的に調査、研究する「ポジティブ心理学」でした。研究では、幸せと感じている人は生産性が高く、そういう人が多くいる会社の利益は高いことが分かっていました。
具体的には、幸せを感じている人たちは、そうでない人たちと比べ、平均して営業の受注率が3割高く、創造性は3倍に増え、離職率は半分ほどになります。さらに、幸せな人が多い会社とそうでない会社とでは、一株あたりの利益が18%も違うということも報告されていました。矢野さんはここに目をつけたのです。
矢野さんが特に注目したのは「幸せと生産性の関係性」を検証していた米国カリフォルニア大学リバーサイド校のソニア・リュボミアスキー教授でした。矢野さんは直接、教授から話を聞きたくなり、「まるで飛び込み営業のように」米国に飛んで、大学を訪ねました。
そして実際にリュボミアスキー教授に会って意気投合した矢野さんは、教授とともに「テクノロジーを使って幸福度を高める方法」について共同研究を行い、技術と幸せを結びつける先駆的な論文を共著で発表しました。
そこでたどり着いたのが、「どんなビジネスもその目的を突き詰めると、最後は“幸せ”のために存在する」という境地であり、ビジネスを通じて「人を幸せにしたい」という考えでした。
研究で分かった幸せな組織の特徴
こうして新規事業の方向が決まると、矢野さんは2006年、「どういう組織なら人が幸せを感じることができるのか」を科学的に調べる研究を始めます。人の動きを観測するセンサーを開発し、その行動データを分析していきました。
「幸せを数値化して、人が幸せになる要因を明らかにすることができればという妄想からスタートしました」(矢野さん)
そして、検証を重ねること15年。50億点もの行動データを分析することで、幸せな組織が持つ4つの特徴「FINE」を明らかにしました。
4つの特徴とは、人のつながりが均等な「Flat」、短い会話が高頻度で起きる「Improvised」、会話中に体が動く「Nonverbal」、発言権が平等な「Equal」。それぞれの特徴の頭文字を取って「FINE」としました。
幸福な組織に見られる三角形の関係
矢野さんの研究ではさらに重要な発見がありました。
日立製作所や東京工業大学との共同研究によって、上司と部下の縦の関係や用件のみの関係によって生じる「V字の関係」だけではなく、同僚との横や斜めのつながりを含めた「三角形の関係」がないと、前向きでウェルビーイング(心と体と社会の良い状態)な組織にはならないということが、分かったのです。
「このことは、職業や組織を越えて普遍的に成り立つことも分かりました。『V字か三角形か』という小さな違いが、大きな違いを生んでいたのです」
これに関する論文は2022年6月、著名な科学誌「Nature/Scientific Reports」に掲載されました。
「幸せは『楽でゆるい状態』だと思われていることが多いです。幸せとビジネスとの間にギャップを感じる人が多いのはそのためなのです。しかし実は、幸せを生む力は、『前向きな精神的エネルギー』から生まれます。このためには、職場の中で三角形の人間関係が築かれていくことが重要なのです」
幸せな状態で仕事に取り組む
「幸せ」という抽象的な概念を科学的に分析してきた矢野さんですが、矢野さん自身も前向きで、幸せな状態で仕事に取り組んできたといいます。
妻の史子さんは矢野さんについて「根っからのポジティブシンキングな人」と言います。というのも、矢野さんは若いころから仕事で困難な状況に陥れば陥るほど「いいぞ、いいぞ」と口癖のように言ってきたそうです。
「最初は虚勢を張っているのかと思いましたが、どうも本音らしいのです。主人にとって大変な状況というのは、『自分が成長するチャンス。それを乗り越えることで、前より一歩進んだ自分になれる』というのです」(史子さん)
旧知の仲である東京大学大学院工学系研究科システムデザイン研究センターの黒田忠広センター長は、「矢野さんといえば、日立のエースではなくて、日本のエース。国際的な最先端の研究をしてきた」と評します。
「彼はいつも楽しそうに研究している人です。新しい会社を設立した背景には、自分だけにしか見えない未来や、世界でわずかな人しか知らない『幸福』についての事実があったのではないでしょうか。事業を通じて、それを人に伝えたいと考えたのだと思います」
ユーザーを前向きにするアプリ
こうして15年に渡る研究の末に生まれたアプリが、「ハピネスプラネット」。2022年5月の提供開始から半年あまり、これまでに約130社がハピネスプラネットのアプリを利用してきました。
ユーザーからは、「同僚たちの人柄がわかるようになった」「部下のモチベーションや体調変化に早く気づけるようになった」「悩みを共有しあえるようになった」などの声が寄せられています。
いまでは、日立の新人研修でも「ハピネスプラネット」が活用されています。アプリを使用したことで「同僚との関係を広げることができた」と実感した人数はともに8割を超えました。
「仕事が前向きになり、人とつながり、自身が成長する。それが新たな付加価値を生み、経済に反映し、さらに新しい挑戦の機会を与えられて成長するのです」(矢野さん)
「日本の企業組織を変えていく」
矢野さんはいま、より多くの人に「三角形の関係」の効果を届けるため、新たな取り組みを行っています。それが様々な企業や組織が参加し、共に学び、トレーニングを実践するプログラム「ハピネスプラネットジム」。ユーザーに向けて、「三角形づくり」の意義をオンラインで直接語りかけます。普段は物静かな矢野さんですが、「幸せ」について話すときは熱がこもります。
「幸せは、生産性や創造性を高め、心身を健康にします。それだけでなく、離職を防ぎ、企業の株価も高めます。しかも幸せは、訓練で身につけられるスキルなのです」
参加者は、製造業をはじめ、不動産や建設、医療関係者や金融機関など多種多様な職種で、全国各地から多くの人が参加しています。
矢野さんはこうした活動やアプリを通して、多くの人に「三角形の関係」を作ってもらい、世界中の職場環境をより幸せで、生産性の高いものに変えていきたいと考えています。
「人は仕事がうまくいったときに幸せになるのではなく、幸せだからこそ、仕事がうまくいくのです。世界中の組織を、熱意に満ちた人同士のつながりのある場へと変えていきたいです」
「社会のあらゆる活動を幸せのためのものにする」と語る矢野さんの挑戦は、これからも続きます。