日立と国立大学法人京都大学(以下、京都大学)は2016年6月、「ヒトと文化の理解に基づく基礎と学理の探究」をテーマに日立未来課題探索共同研究部門(日立京大ラボ)を設立。そして2017年9月、京都大学と日立は共同で、持続可能な日本の未来に向けた政策を提言した。人文・社会科学系の有識者と情報科学系の研究者がAI(人工知能)を使って描き出したのは、2万通りもの日本の未来シナリオ。そこから得たのは、幸福な未来に向けた、あるべき社会への強い示唆だった。
動画「2050年、より多くの人々が幸せに暮らせるように──」イントロダクションムービー
京都大学こころの未来研究センターの広井良典教授は、公共政策と科学哲学を専攻とし、社会保障、医療、環境などの政策研究から死生観、コミュニティなどをめぐる哲学的考察まで、その活動領域は実に幅広い。教授の数ある問題意識の中でも、重要なテーマとなっていたのが「日本社会の持続可能性」である。
「政府の債務残高は増える一方で、貧富の格差は拡大し続けています。若年世代は生活不安を抱えているため、出生率はさらに低下するでしょう。このままだと日本社会の持続可能性はかなり危ういと言わざるをえません。何か手を打たなければならない。そう考えていたタイミングに、ちょうど日立京大ラボができたのです。」
実は、日立京大ラボのメンバーと広井教授は以前から顔見知りだった。教授がまだ前任の千葉大学在籍時に、日立の基礎研究センタで講演をしてもらったことがある。日立京大ラボでラボ長代行を務める嶺竜治によると、日立京大ラボのメンバーは、この講演を聴いて、人文・社会と情報科学の研究の融合の可能性に思いをはせたという。
「広井教授といろいろな話をして、その問題意識を伺っている内に、ほかの先生方も巻き込む共同研究の話が自然に立ち上がりました。もともと人の意思決定を支援するようなAI技術を開発したいと考えていましたが、京大ならではの人脈を得て、政策提言という大きな構想へと発展していきました。」
2050年の日本の未来をどのように考えるのか。京都大学の人文・社会科学系の有識者と日立の情報科学系の研究者がさまざまに議論しながら、プロジェクトは少しずつ進み始めた。
149個もの指標を記した付箋を使って行われたワークショップの様子
共同研究には広井教授の人脈から、財政学、社会心理学、医療経済学といったさまざまな分野の教授陣が集まった。研究のゴールは、持続可能な日本の未来に向けた政策提言である。
「先生方と議論する際に、最も重要な論点となったのがAIの活用法です。我々も社会科学について学ぶ中で、政策提言などの意思決定は、情報収集から対象のモデル化、選択肢の検討、戦略選択の3つのステップで進められることを理解していました。通常ならAIは、大量に集めた情報を解析し、人間が気づかない関係性を抽出してモデル化するプロセスに活用します。けれども、30年も先の未来となると、今あるデータだけでは描ききれません。そこでAIの新たな活用法として、これから起こりうるさまざまな未来を、網羅的にシミュレーションしてみてはどうか、と提案したところ、“それでいこう!”と先生方に同意していただけたのです」(嶺ラボ長代行)
未来予測といえば、1972年に発表されたローマクラブによる『成長の限界(The Limits to Growth)』*が有名だが、当時は起こりうるさまざまな未来に向けた多数のシナリオを導き出すAIはなかった。
「持続可能な未来社会を本質的に追求するためには、人口、財政、地域、環境資源、雇用、格差などの定量的な指標だけでは不十分であり、健康や幸福などの主観的要素も考慮に入れる必要があります。あいまいな主観的要素をパラメータに組み込んで処理するのは難しいのではないかと心配しましたが、日立のAIではこうしたあいまいな要素も取り込んでシミュレーションすることができました」(広井教授)
あいまいな要素を取り込んでモデル化する作業は、未来に影響を及ぼす社会要因を洗い出すことから始まった。京都大学の4人の研究者によって、「少子化」「環境破壊」「国内総生産(GDP)」「失業率」などの定量化できる指標だけでなく、「幸福感」「豊かさ」などの定性的な指標も含めた、149個ものキーワードが挙げられると、これらをホワイトボードに貼り出し、各指標間の因果関係を吟味していった。
日立京大ラボ・主任研究員の福田幸二は、その過程を、「正と負の因果関係を矢印で結んでいく中で、全く関係ないようなもの同士でも思いもよらない影響があることに気づかされたり、専門家の頭の中を垣間見るような瞬間に立ち会えたり……。ぞくぞくするような知的刺激にあふれる時間でした」と振り返る。
洗い出した社会要因が互いにどう作用し合うのかを体系化すると、AIによるシミュレーションを行うためのモデルが構築された。このモデルに基づいた未来の選択肢の提示こそが、人には想像できない膨大な可能性を列挙する性能に優れたAIの力の見せどころである。
人が思い描ける未来シナリオの数には限りがある。しかし、AIは、複雑に絡み合う無数の社会要因の中から、2018年から2052年までの35年間に起こりうる約2万通りの未来シナリオを描き出した。ここから類似シナリオをまとめ、23のグループに分類したところ、意図せず明確な2傾向が立ち現れた。それは、プロジェクト参加メンバー全員にとって、実に意外な結果だった。
「23のグループは大きく、都市集中型と地方分散型のシナリオに二分されました。都市集中型とは、まさに東京のような大都市にすべてが集中する未来であり、財政的には何とか持続可能なものの、人口減少が加速し格差が拡大するとともに、人々の健康水準や幸福度は低下します。一方で、地方分散型とは、地方に分散して人々が暮らし、格差が縮小しながら、それなりに経済も回っているような未来像です。そうして、各シナリオグループの2052年の状態について、人口、財政、地域、環境・資源、雇用、格差、健康、幸福と8つの観点から評価すると、持続可能性が高いのは地方分散型と判断されました」(広井教授)
代表的な23のシナリオグループを8つの観点から評価した結果。1~4のシナリオグループは、地域に人口が分散され再生されることで、出生率が高まり人口増加、格差縮小、個人の幸福度も上がるなど、おしなべて評価が高い。対して、地域が×になっている21~23のシナリオは都市集中型を表し、財政、環境資源、雇用は上がる一方で他の要素は全て×となっている。
動画「時間の経過とともにシナリオが分岐していく様子がわかるシミュレーション」
今回のシミュレーションにおいてはもうひとつ、興味深い点があった。シナリオが分岐するタイミングと、その要因である。都市集中あるいは地方分散にいたる各シナリオは、時間軸が進むに連れて分岐していく。まず今から8~10年後に都市集中か地方分散という大きな分岐点に到達し、これ以降2つのシナリオが交わることはない。つまり、日本の未来の大まかな方向性は、8~10年後に決まると考えられる。そして地方分散型に進んだ場合も、17~20年後には、財政・環境の持続不能シナリオが分岐する。このタイミングまでに必要な政策を実行しなければ、2050年以降の日本は、やがて財政あるいは環境が極度に悪化し、持続不能となる可能性がある。
「AIによって、各シナリオの分岐が、いつ、どのような順番で発生するかと、望ましいシナリオに誘導するのに効果的な指標群が明らかになり、それらを元に先生方が取り組むべき社会施策を整理し、今回、政策提言の形でまとめられました。最近の政治においては、『Evidence Based Policy Making(証拠に基づく政策)』が求められているため、『Evidence』の明らかな我々のシナリオ技術の有用性は高いと思います。今後はシミュレーションを重ねて、その精度を高めることが我々の課題です」(嶺ラボ長代行)
政策提言に至るまでの一連のフロー。「選択肢検討ステージ」にAI技術を用いたシミュレーション・解析を行い、膨大な数のシナリオの列挙やシナリオ間の関係性の検討などを行った。
2017年9月、京都大学と日立は共同で、「AIの活用により、持続可能な日本の未来に向けた政策を提言」と題したニュースリリースにて、一連の研究成果を公表した。例えば、地方分散シナリオに誘導する政策として、環境課税や地域の公共交通機関の充実などが提言されている。日本の未来の分岐をシミュレーションした動画は大きな反響を呼び、全国の自治体などから約60件の問い合わせが入った。
そして今、広井教授を中心に、各地の地方自治体との取り組みは既にスタートしている。長野県では、同県が進める「しあわせ信州創造プラン2.0」のもと、今回のシミュレーションモデルを応用した長野県の将来シナリオの作成に取り組むことになった。
「今後の課題は、実証実験を重ねてシミュレーションモデルを精緻化することです。例えば、長野県の場合なら、リニア新幹線の開通がもたらすプラスの影響とマイナスの影響を、どのようにシミュレーションしていくのか。未来を考えるためには、日立京大ラボの力が欠かせません」と、広井教授は今後の抱負を語る。
日立京大ラボでは今後、シミュレーション技術をパッケージソフト化し、全国の地方自治体などに無償提供していく予定だ。
「日立京大ラボでは、今後も広井教授と協働しながら活動する予定で、そのための体制作りを進めているところです。これまで我々のような人工知能の研究者は、人間を、生物学的な対象の“ヒト”としてメカニズムの部分で参考にしてきました。今回の広井教授とのコラボレーションにより、未来社会の課題を解決するためには、『社会』という視点からも“人”を捉える必要性があると痛感しました。未来を考える上でのAIの活用法についても、今回のプロジェクトで一つのモデルを確立できたと感じています」と、嶺ラボ長代行は確かな手応えを語った。
政策提言の発表後、長野県をはじめとする地方自治体との取り組みが始まっている
公開日: 2018年9月
ソリューション担当: 日立製作所 研究開発グループ